「行ってみなけりゃわからない」と
新たな市場を求めて飛び出す

2008年、入社3年目で望みどおりシンガポールのKawarin Enterpriseという鋼材加工センターへの出向が決まった高沢。当時のシンガポールやマレーシアなどでは日系メーカーの製造拠点からの需要が多く、鋼材製品への引き合いは非常に強かった。
「最初はこんなに簡単に売れて、ずいぶんと楽な商売だなと思いました」と述懐する。ところが、その年の9月に「リーマン・ショック」が発生すると、みるみると注文は減り始め、60%もの取引実績が吹き飛んでしまった。 「これは大変なことになった、と焦りました。やるべきことは一つ、国を広げて新規顧客を開拓するしかない、と」
 インターネットでは本当に欲しい生の情報は得られない。「行ってみなけりゃわからない」と判断した高沢は、上司から出張許可をもぎ取るとシンガポールから飛び出して行った。行き先はミャンマー、インド、パキスタン、イラン、そしてエジプトなど約10カ国。一人で、また時には現地の代理店の営業担当者と2人で、高沢は市場がありそうな場所を片っ端から訪れていった。そして、現地のホテルに陣取り、イエローページをめくって商材が売れそうな会社を片っ端からリストアップする。
「Kawarinの手がける品種は発電所の変圧器用電磁鋼板でした。発電所はどこの国にもあり、変圧器メーカーも必ずあります。まずはそこをしらみ潰しに狙いました」
 ホテルの部屋から一人で、あるいは手分けをしてアポイントをとるための電話をかけ続けた。もちろん、飛び込み訪問も厭わなかった。

受付嬢がインド人と見抜き
インド人スタッフにアプローチさせる

工場の設備などを直接見なければ、どんなニーズがあるかもわかりません。自分の目や感覚値で勝負するしかないと思っていました」
 そんな責任感に裏打ちされた“体当たり営業”で、2年間で口座を開いた顧客は約300社。アタックした企業数は、7,000社は下らない。
 そうした中で最も印象に残っているのは、ドバイのある変圧器メーカーだった。飛び込みで訪問するが、“けんもほろろ”の対応で責任者は面会に

は応じてくれない。しかし、高沢はタダでは帰らなかった。受付の女性がインド人であることを見抜き、JFE商事ドバイ支店のインド人スタッフからアプローチさせることにした。
「そうしたら、2人は偶然、同郷であることがわかりました。このことを突破口にして、同社のインド人の購買部長への面会にこぎ着けました。どうすれば会ってもらえるか、必死に考えているとアイディアが湧いてくるんです(笑)」

決裁権はなくても、その場で自分で判断し
答えなければ、それで終わり

それでも、購買部長は「間に合っている」と素っ気ない。しかし「ここからが勝負」と高沢はあきらめなかった。一見堅物の相手でも、関心がありそうな話題を振ると素顔を見せる瞬間がある。そして高沢は食い下がり、先方が望む取引条件を聞き出していった。
「価格で折り合わなければ配送頻度や支払い条件の緩和など、あらゆるサービスを提示して交渉しました」
 厳しい条件を突きつける相手を前に、高沢は数日前にある訪問先で失敗した経験を思い起こしていた。「一度本社に確認して、明日回答する」と言った途端に、相手は一方的に交渉を打ち切ってしまったのだ。
「スピードが何より重要です。相手は決裁権があり、こちらには決裁権はなくてもその場で自分で判断し答えなければ、それで終わりです」
 高沢は、いつしか「これぐらいまでならメーカーも本社もぎりぎりOKを出してくれるに違いない、出させてみせる」という“感覚値”を身につけ、お客様には“決意”で迫った。
 そして4カ月後、「ならば、100トンから始めよう」という言葉を引き出すことができたのだ。
「インドでは、日本のような“浪花節的営業”は通用しません。相手の望むことにどれだけ応えられるか。そんな交渉感覚は、現地で相手に直接ぶつからなければ養えませんでしたね」
 その購買部長が心変わりしたのは、「高沢は必ず応えてくれる信頼すべき人間」と思ったからにほかならないのだ。